I-リオデジャネイロの歴史

ブラジルがポルトガル人Pedro(ペドル) Álvares(アウヴァレス) Cabral(カブラウ)によって発見されたのは1500年4月22日のことだ。この日、現在のバイーア州南部の海岸に到着した。ブラジルの発見後、ポルトガルはブラジル探索の為に多くの探検隊を送りこんだ。1502年1月1日、その最初の探検隊が現在のGuanabara湾を発見した。探検隊はこの湾を川の河口だと勘違いし、この地を一月の川、すなわちリオ・デ・ジャネイロと呼んだ。これが、リオ・デ・ジャネイロの始まりである。

ポルトガルによるブラジルの探索が進められている間、他のヨーロッパ諸国(フランス、オランダなど)もブラジルに興味を示し、沿岸部のいたるところで、領土の争奪戦が繰り広げられた。リオでは、1555年、フランスがGuanabara湾に浮かぶ島々を占領し、先住民のタモイオ族と手を結び、ポルトガルの領土を侵略し始めた。ポルトガルは自陣の体勢を整えて、フランスを追放するには、拠点となる都市を設立し、整備する必要があった。その任務のため、司令官Estácio(エスタシオ) de() ()がポルトガルより派遣された。彼は、1565年彼はリオを"São(サォン) Sebastião(セバスチアォン) do() Rio(ヒオ) de() Janeiro(ジャネイロ)"という名の正式な都市であることを宣言した。このSão  Sebastiãoという名前は、幼くして父王を亡くし次期ポルトガル王となる立場にあったDom Sebastiãoに敬意を表し、また、同じ名前であるキリスト教の聖者São Sebastiãoに因んでつけられたものである。このためSão Sebastiãoはリオの守護聖となったというわけだ。

2年間、Estácio de は都市を守るための指揮をとった。フランスに対抗するために他の先住民族のテミミノ族などと手を組むといった策を用い、1567年1月20日ついにフランスを追放することに成功した。

リオの海岸線のいろいろなところに砦が残っているのはこうした、他の国との領土争奪戦の為である。

フランス追放の後、最初の総督府はMorro(モホ) do() Castelo(カステロ)に置かれた。都市は、このMorro do Casteloを中心として発展していった。学校、教会、商業施設、住宅が次々とつくられ、街の規模は次第にその周辺地域へと広がった。また、郊外には砂糖などの農場がつくられた。

さらに、16世紀の終わり頃からアフリカより黒人奴隷が砂糖農場の労働力として連れてこられるようになった。当時のリオの人種構成はインディオ、白人、黒人であった。(この当時の街の規模は非常に小さく、リオという街はほぼCentro地区のみを示していた)

17世紀はリオ・デ・ジャネイロ市民としての自覚が芽生え始めた時期である。17世紀初頭、それまで木製の柱や泥壁といった、ひじょうに簡単な建物だったのが、本格的なレンガ造りの建物にとって変わられるようになった。最初に本格的なレンガ造の街並みを現したのは当時の州知事が住んでいたRua(フーア) Primeiro(プリメイロ) de() Março(マルソ)である。

18世紀も引き続き街は発展しつづけ、規模も拡大していき、Rua Uruguaiana(ウルグアイアナ)まで達し、通りは現在Campo(カンポ) de() Santana(サンタナ)と呼ばれている地域まで伸びた。

また、現在のZona(ゾナ) Sul(スウ)(南部)とZona(ゾナ) Norte(ノルチ)(北部)は、それまで都市の郊外であり、サトウキビの大規模農場が広がっていた農村地区だったが、これらの農場が解体、分割され、閑静な住宅地となった。いまのSão(サォン) Cristovão(クリストヴァォン)Botafogo(ボタフォゴ)で、新しい住宅地として非常に人気を集めた。

19世紀はリオにとって激変の時代となる。ヨーロッパを席捲していたナポレオンの進攻から逃れるために、ポルトガルの王家が一家総出でブラジルに移り住んできてしまったのだ。

彼らはリオに居を構えた。リオはそれにふさわしい街のなるべく、急激に発展した。道路の舗装や、公共施設や港の建設、広場や公園、街灯の設置など、都市のインフラが整備された。リオの名所として有名なPaço(パッソ) Imperial(インペリアウ),Jardim(ジャルヂン) Botânico(ボタニコ),Casa(カーザ) do() Trem(トレン)(現在のMuseu(ムゼウ) Histórico(イストリコ) Nacional(ナスィオナウ))などが造られた。また、ブラジル最初の鉄道であるCorcovado(コルコヴァード)の登山鉄道もこの頃だ。さらに、Teresóplis(テレゾポリス)Petrópolis(ペトロポリス)などが、王族の避暑地として整備された。

19世紀半ばにはガス灯や電力の設備が整えられ、さらには電報や宅配便などのコミュニケーション媒体も発達した。ブラジルからヨーロッパへ引かれた電報や電話の海底ケーブルは、世界初の試みだった。

さらに19世紀終わり頃になると、公共の病院や墓地、下水道が整えられた。

1888年の奴隷開放、さらに翌年の共和制宣言もリオに大きな変化をもたらした。

大邸宅の持ち主は多くの奴隷を働かせることによって、広大な敷地を管理、運営していた。しかし、今までただ同然だった奴隷の労働力に、報酬を払わなければならなくなると、それを維持することが困難となり、多くの人が敷地を手放した。さらに、共和制になったことで、貴族が没落し、莫大な財産や領地が没収、分割された。持ち主を失った土地や建物は、政府に買い取られ、学校や病院養老院、その他公共施設として使用されるようになった。

このように、コロニアの小都市に過ぎなかったリオは、ポルトガル王家を迎えることで、ブラジルを代表する大都市へと変化していったのである。

 20世紀、リオはブラジルの首都として近代的発展の時期を迎える。都市を近代化される様々な事業が行われた。

Av.Central(セントラウ)(現在のAv.Rio(ヒオ) Branco(ブランコ))の拡張。当時、リオでもっとも広い通りだった。

Morro do Casteloのとり壊し。(Centro地区により多くの敷地を確保するため。MEMO参照)

Av.Brasil,Presidente(プレジデンチ) Vargas(ヴァルガス)の建設

Aterro(アテホ) do() Flamengo(フラメンゴ)(フラメンゴ地区の埋立地)造成のため、Morro(モーホ) de() Santo(サント) Antônio(アントニオ)のとり壊し

・ファヴェーラの住民のための集合住宅建設。市内の丘から移住させる。(「Favela(ファヴェーラ)」の章参照)

また、1992年には地球環境保護のための国際会議「リオ エコ’92」が開催されたことも有名だ。京都議定書の大本がつくられたのが、この会議だ。

 1960年に、首都がリオからブラジリアに移されたものの、現在のリオ州にあたる地域は依然としてリオ・デ・ジャネイロ州(リオ市のみ)とグアナバラ州(リオ市以外の地域)に分かれていた。

それが合併され、現在の州の形になったのが、1975年のことである。

 首都の座はブラジリアに譲ったものの、リオ・デ・ジャネイロは、観光、文化、商業の分野において、ブラジル国内だけでなく国際的にも、重要な都市でありつづけている。

において、ブラジル国内だけでなく国際的にも、重要な都市でありつづけている。

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